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最高裁判所大法廷 昭和26年(れ)1452号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人島田武夫、同島田徳郎の上告趣意第一点について。

廃止前の入場税法一六条一項と、地方税法(昭和二三年法律第一一〇号旧地方税法)一三六条との法定刑を比較すると、前者が重く後者が軽いことは所論のとおりである。所論はこの場合、たとえ右地方税法一五一条三項に「入場税法の廃止前になした行為に関する罰則の適用については、なお、従前の例による」との規定があっても、この規定は単に「入場税法廃止前の行為はなお処罰する」というだけの法意であって、したがってこの場合適用すべき罰則は、刑罰を公平ならしめるための規定である刑法六条に従い、軽い地方税法の罰則によって処断すべく、重い入場税法の罰則によるべきものではない。しかるに右重い入場税法の罰則を適用処断した原判決は憲法一四条に違反すると主張する。

しかし刑法六条は犯罪後の法律により刑の変更がなされた場合に適用のある規定であって、本件の如く右地方税法一五一条三項の如き規定を設け、特に、従前の行為に関する罰則の適用については、なお、従前の例によるものとした場合には、従前の行為に関する限り刑罰規定については何等の変更を見ないのであるから刑法六条はその適用の余地がないものといわなければならない。また、同種の犯行についてその行為の時期によって刑罰規定に差異を設けても、それは立法政策の問題であって憲法一四条のいわゆる法の下における平等の規定に反するものでないことはいうまでもない。所論違憲の主張は理由がない。

同第二点について。

所論は、廃止前の入場税法一七条の三(但し昭和二二年法律第一四二号による改正前の条文)のいわゆる両罰規定は、憲法三九条に違反すると主張する。

しかし、同条は事業主たる、人の「代理人、使用人其ノ他ノ従業者」が入場税を逋脱しまたは逋脱せんとした行為に対し、事業主として右行為者らの選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかった過失の存在を推定した規定と解すべく、したがって事業主において右に関する注意を尽したことの証明がなされない限り、事業主もまた刑責を免れ得ないとする法意と解するを相当とする。それ故、両罰規定は故意過失もなき事業主をして他人の行為に対し刑責を負わしめたものであるとの前提に立脚して、これを憲法三九条違反であるとする所論は、その前提を欠くものであって理由がない。

記録を調査するに、事業主たる被告人において、判示行為者らの判示違反行為につきこれを防止するために必要な注意を尽したことの主張立証の認められない本件において、被告人に所論両罰規定を適用した原判決は正当であるといわなければならない。

同第三点について。

所論は憲法三一条違反を主張する。しかしその所論の実質は前掲廃止前の入場税法一七条の三の解釈につき独自の見解を主張するか、または事実誤認の主張であって適法な上告理由と認められない。のみならず本件逋脱行為がたとえ判示行為者らにおいて所論横領の目的をもって行われたものであったとしても、その具体的目的の如何の如きは、本件両罰規定にいわゆる「業務ニ関シ……違反行為ヲ為シタルトキ」とある要件に少しの影響をも及ぼすものとは解せられない。

よって刑訴施行法三条の二、刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。

この判決は裁判官田中耕太郎、同斎藤悠輔、同下飯坂潤夫の次の補足意見を除き、裁判官全員一致の意見によるものである。

上告趣意第二点についての裁判官田中耕太郎、同斎藤悠輔の補足意見は、次のとおりである。

われわれは、大体において、下飯坂裁判官の補足意見に同調する。元来わが刑法は、その三八条一項本文において、刑事責任は原則として故意を要することを宣明し、各則において例外として過失犯を認め罰金を科し、業務上過失又は重過失の場合には禁錮刑をも科しうる建前を採っている。しかし、同条一項但書は法律に特別の規定ある場合は、故意を要しないものとし、同法八条但書は、刑法以外の他の刑罰法令においては、刑法総則と異なる特別の規定を設けることを許している。そして、本件廃止前の入場税法一七条の三は、この刑法三八条一項但書および同法八条但書の規定に基く法律であって、刑事責任を負うのに故意も過失も必要としない規定である。すなわち、学者のいわゆる従業者の違反行為を構成要件として生ずる業務主自身の刑事責任を規定したものである。その立法理由とするところは、税法のような徴税を目的とする法律においては、業務主の業務に関し税法違反をした場合に、その違反行為をした資力の乏しい従業者だけを罰して見たところで、その取締の目的が達せられないから、その業務の主体であり、業務上の利益を受ける、資力のある業務主からその業務に関し生じた税金に代る罰金を取り立てようとするにある。されば、かかる規定が憲法三九条に違反しないことは、いうまでもない。多数説は、先ず明らかに明文に反する。何よりもいけないのは、その根底において刑法三八条一項但書および同法八条但書の存在を忘却し、他の刑罰法令においても常に故意又は過失を要するものと誤解していることである。

上告趣意第二点についての裁判官下飯坂潤夫の補足意見は、次のとおりである。

いわゆる両罰規定の立法上の合理的根拠が奈辺にあるかという問題に関しては、従来諸種の見解が存しているが、これを大別すれば、過失責任説と無過失責任説との二つに分けることができる。前者は事業主(法人を含む)の従業員に対する選任監督上の過失の中に責任の根拠を見出そうとするか、あるいは、事業主の間接的な一種の過失犯そのものとする説であり、後者は国家ないしは社会的要請から一種の無過失的な結果責任とするか、あるいは直截簡明に無過失責任そのものであるとする説である。しかし両罰規定といってもわが成法の下では各種の形態を具えているのであるから、この問題は一概に抽象的に論断することはできない、そこで、わが法制下における両罰規定の形態であるが、これは大体次の三つに大別できるものと考える。

その第一は、原則的に両罰であるが、事業主に従業員の違反行為防止の為め当該業務に関し相当の注意及び監督の為されたことの証明があったときは事業主を罰しない、すなわち事業主に無過失の証明のあったことを免責事由としつつその反面両罰の根拠を過失に求めようとするところの規定である、消防法四五条、保険業法一四九条、鉱業法一九四条、農地法九四条の如きは、これに属するものであり、これに準ずる規定として港湾法六二条、生活保護法八六条二項等を挙げることができよう。

その第二は、事業主の事実上の行為者に対する監督取締上の過失責任ないしは違法の結果発生に対する防止義務の懈怠又は違法行為の惹起に対する共犯責任を処罰の根拠としている場合であって、職業安定法六七条、船員法一三五条はこの部類に属する。

第三は、最も厳格な意味における両罰規定であり、いわば、両罰規定の典型的なものであって前示第一のように免責事由の場合を除外することもなく、また、第二のように、義務懈怠や悪意や教唆を予定している場合でもなく、従業員が違法行為をしたときは、これに何らの条件を附加することなく、事業主を処罰する場合であり、本事案の廃止前の入場税法一七条の三の如きはまさにそれであって、この部類に属するものとしては労働者災害補償保険法五四条、農業協同組合法一〇〇条二項、農業災害補償法一四六条二項、自作農創設特別措置法五一条、災害救助法四八条、消費生活協同組合法九九条三項、放送法五七条一項、鉱山保安法五八条、法人税法五一条、火薬類取締法六二条、医療法七五条、麻薬取締法七四条、薬事法五九条、道路交通取締法三一条、温泉法二五条、食品衛生法三三条、失業保険法五五条、健康保険法九一条等々、枚挙にいとまがない。

さて、責任なければ刑罰なしとは、刑罰法における伝統的な根本観念である、また、他人の行為による刑事責任については、その人が他人の行為に対し意識して原因を与えた場合でなければならないとするのが英米法における原則(原因供与の原則)である。しかしそうした考え方は現代の高度に発達した文明社会においてもはや、しかく安易に受け入れられない段階にまできているのではないかと私は考えるのである。

民事において、過失なければ責任なしとはローマ法以来の大原則である。従って自己のかかわりない他人の行為については責任を負わないというのが、右原則の当然の適用であった。しかし社会情勢の推移発展から、また損害賠償制度の本質に鑑みて、右原則が徐々に崩れゆく方向にあることは、ここに多く弁ずるまでもあるまい。すなわち自己の意思又は命令に出たものでない代理人の行為に対し、本人に責任を負わしめる、いわゆる上級者責任の原則が是認されるようになり、また、更に全く過失のない場合にさえ責任を負わしめる方法が採用されるに至ったのである。(民法七一七条参照)。勿論損害賠償制度と刑罰とはその根本観念を別異にするものであるが、近代の複雑な社会構造においては刑事においても、民事におけるような、いわゆる代替責任ないしは無過失責任を認めることなしでは、到底法秩序の安定を期し得ないのであり、それが近代法の当然の要請でもあると考える。尤もそれは、行政取締法規のわく内でのことで、金刑に限局さるべきであろう。この点に関し、ある米国の刑法学者は次の如く述べている。「民事において上級者責任の原則を是認せしめたように、刑事裁判が商業的分野にまで及び、食糧品、建築、交通等に関する取締法規違反のような、本来犯罪とは云えないものにまで及ぶ今日においては、刑事責任についても民事と同様な代替責任を是認しようとする傾向の生じてきたことは、けだし免れない数である。(中略)本来の犯罪は道徳的非行から始ったものであって、これに対する刑事裁判の目的は専ら処罰にある。ところが、現代では、その本質は民事的であり、個人の道徳的責任とは関係のない社会的立法である取締法規を実効あらしめるために、刑事裁判手続という機械を利用しようとしている。すなわち刑法が本質的には刑事的でない分野にまで強く侵入されているのである。かかる例は、非常に多く、建築規則、スピード規制、食品取締規則、児童に関する労働規則、酒類取締規則の如きがそれで、いずれもこれに対する違反行為に対しては軽い刑を科することによって右規則の励行を期している。しかも、これらの規則違反は犯罪のレッテルを貼られることにおいては何の変りもない」云々。

私は、両罰規定の根本理念を「事業それ自体」の中に見出したいと考える。思うに現代の国家ないしは社会において、経済活動がその大部分の分野を占めていることはここに多弁を要しないが、その経済活動の多くは事業主(法人を含む)があって、その傘下に、多数従業者を包擁結合し、これを一定の有機的な組織機構の下において、あたかも、一個人の事業であるかのように運営されているのである。そして、それら従業員の個々の行動は事業主の業務に関する限り、善は善なりに、また悪は悪なりに、利益も損失も、約言すればその業務実施の結果は挙げて、悉く事業主に帰属せしめられているのである。従って従業員の当該業務に関して為した事実上の行為は同時に事業主自身の行為と看做して一向に妨げない。近代における事業というものはそうした性格のものと理解してのみ、現代の社会構造を把握できるものと私は考える。してみれば、両罰規定において、従業者の違反行為に対しては従業者個人の刑責を問うと同時に、事業主に対しても事業主としての刑責を問い得る筋合であってここに両罰規定の合理的根拠を見出し得るものと私は信ずるのである。かように考えてくると、本件改正前の入場税法一七条の三の事業主の責任なるものは当該事業の性格自体から、当然に事業主に帰責せしめられなければならないという上叙のような趣旨の下に明定された刑責であって、従業員の違法行為の存在だけを構成要件とし、その他の要件の附加されることを予定していない事業主独自の責任であり、いわゆる転嫁責任でもなければ、また多数意見の立論の根拠となっている監督上の過怠責任でもないのである。

ところで、右規定の無過失処罰の点が憲法違反だという本上告論旨についてであるが、その立論の根拠となっている憲法三九条にいう「何人も実行の時に適法であった行為について刑事上の責任を問はれない」という条章は、いわゆる事後法の禁止をうたっただけのものであって、所論の場合などには何ら関係のない規定である。従って所論違憲の論議は筋違のものであるが、それはともあれ、いったい、憲法は無過失(狭義)処罰(他人の行為に対して無過失責任を負う場合を含む)を禁じているであろうか、私の見るところではそんな規定は憲法のどこにもないのである。尤も、いわゆる適式手続を規定している憲法三一条が、こうした場合、取上げられるであろうが、これとて、無過失のものを処罰することがいけないなどとは一言半句もいっていないのである。ただ、その定め方が同条章から問題とされる場合もあり得るであろうが、前示入場税法の規定が同条章に照してみても、違憲とされる余地のないことは上来説示したところによって、すでに明瞭であろう。それ故私は本論旨は理由のないものと考え多数意見の結論に同ずるものであるが、しかし多数意見は憲法が無過失処罰を違憲としていることを立論の前提としてるものであって、到底首肯し難い。また、私は、わが成法の下における両罰規定には冒頭説示のとおり各種の場合があるに拘らず、多数意見はたやすくこれを一括同視したことを遺憾とすると共に、多数意見の結論が税務一般ならびに裁判の実務の上に至大の悪影響を及ぼすであろうことを思い、これに反省の機会の到らんことを望んでやまない。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 高橋潔)

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